スピード化の陰で

週に2〜3度の自転車通勤は僕にとって大事な思索?空想?の時間でもある。自転車といえども車両に変わりはないから運転中は前後左右の注意は必要だ。途中オオタカの営巣している林の近くを通ったり、今の時期だと柿の木の枝の下をくぐったりもするので天からの注意は車以上に必要かも知れない。ゆっくり走って15キロ、頑張って30キロくらいの速度は頭のリズムに呼応するのか物事を考えるのに丁度いいらしく走りながら次から次へと考えが浮かんでくる。さて、今朝の思索?思いつきはこの速度。今ほどパソコンが普及していない頃は調べ物は辞典や事典が使われた。調べる時間には個人差がある。辞書引きに慣れている人は早いだろうし、逆に慣れていない人はなかなか目的の字や言葉を捜せない。それでもイライラはそれほど感じなかったように思う。それは辞書が類似する音や言葉を同一平面状に載せているという特性も一役買っているのではないか。目的の語に到達するのに時間がかかっても偶然見つけた寄り道を楽しむことが出来た。だが、パソコンではそうはいかない。検索-->結果のタイムラグはないのが当たり前。そしてそういったことに人間が慣れてくるとどうなるか。あらゆることにスピードアップ化が要求され、人は待つことや時間のかかることに対する耐性を失う。必然的にイライラ度が増す。必要なことは今すぐに欲しい。そしてそれに応えようとする社会。20年くらい前に伊勢丹の社員の方に聞いた話だが、百貨店ではお客が待ってくれる時間は5分がリミットだそうだ。社員が一人の接客をしているとする。そこに新しいお客が現れる。商品について何か聞きたいとか注文していた品を取りにきたとか理由は何でもいい。先客を相手にしながら新しいお客に5分以内に声をかけるようにする。そうしないとそのお客は待てなくなり帰ってしまったり、苦情を言ってきたりするそうだ。今の時代は多分この5分以内がもっと短縮されていることだろう。早い事を全面的に否定するつもりはないが、皆が遅い事を許せなくなってきてはいないか?そして更に僕が危惧する別の事象。それは時間をかけて長い期間の準備や計画を立てることが無くなってきてはいないか、ということだ。何もかもスピード化し、手間隙かける必要がない世の中になると当然そういった成り行きになるのではないか?必要-->結果がすぐに出てくる。「必要に迫られた時にやれば良いわけで何も今やることはない」そういった目先のことばかりに慣れていってしまうのではないか。結果、中長期的な生き方や計画をしなくなりそうな気がしてならない。