日本語の美しさ

よく年寄りの話はくどくていけない、或いは回りくどいなどと言われる。なるほど確かにそうである。物事をぽんと放るように話せない。これはいかに丁寧に相手に伝えようかとする努力の結果とも言えるが、要点をまとめて話す能力が落ちているからでもある。いきおい話は結論に辿り着くまで大回りをし長くもなる。最初に年寄りは〜と書いたが、実は僕にもこの症状は現れてきている。このブログでもセンテンスの長いこと長いこと。今日などは気をつけているので短い方である。普段だとこうはいかない。読んでくれている人はおそらく黙読だろうから何とかなるだろうが、これを音読したら息が続かない。途中酸欠ででひっくり返ってしまうだろう。文が長いということは無駄を削れないということである。もっとひどいと何が無駄か分からないということだ。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる的に一つの文に沢山の言葉を詰め込む。結果、要点がボケる。文は読みにくくなる。言っている方は相手がイメージしやすく配慮しているつもりでも逆効果である。名文といわれるものは数多くあれど総じてセンテンスが短いように思う。「日が暮れる。人々は家に帰る〜」(安部公房)「死のうと思った〜」(太宰治)「石炭をば早や積み果てつ〜」(森鴎外)などどれも名文の出だしは短い。そしてそれ故力強く読む者を引き込む。だがただ短ければいいかといえばそればかりではない。リズムが大切なのだ。日本語は七五調が読みやすく美しい。最近ではこうした手法の作家は少なくなったように思う。驚くほど文章が巧いのは立川流の人達だ。立川談春、談四楼などは実に巧い。流石噺家だけあって文章にキレやリズムがある。何れも著作が多数あるプロではあるが、その文章力には舌を巻く。彼らは落語という伝統芸能だけでなく同時に日本語の美しさも守っている。