仰げば尊し

桜も開花し、卒業式も終はつた。僕等の頃の卒業式と言へば「仰げば尊し」だつたが何時の頃からかそれも様変わりして今では僕にはまるで分らない歌になつたやうだ。時代と共に多くのものが変はつて行くのは世の常なのだから歌もそれに漏れず徐々に忘れられて行くのは仕方のなゐことなのだらう。それでも「仰げば尊し」の歌としての寿命は永かつたと思ふ。この永い命を支へたのは時代は違へども人々の気持ちや価値観などがある程度共通してゐたからだと考へる。だとすると今この歌が片隅に追ひやられてしまつた世の中と僕等の頃の世の中は気持ちも価値観も大きく違ふのだらう。どちらが是でどちらが非などといふ二元論的な話は軽々には出来なゐが、それでもある年代を境にして前期日本人と後期日本人(便宜的に分類すれば)に分かれてしまつた。そして前期と後期では共通項が減り、対立ばかりの関係になつてしまつたやうに思へる。僕等の時代の音楽はフォークであり、僕はこれを若者演歌と思つてゐる。大人の世界の演歌やムード歌謡などではカバーしきれなゐ思いのたけをギターに載せて弾き語つたり、がなつたりした。それを僕等よりも年嵩の世代の人々がすべて理解したとは言へなゐ。だがこれらの音楽のベースとなつたのは演歌や歌謡曲だつた様に思ふ。今の若者もさういつた意味では彼等の心情を代弁してくれてゐるのが今の歌なのだと思ふ。だがそれは前期日本人である僕には到底理解不能な言葉であり、音であり、リズムである。もはや歌とは思へなゐものもある。勿論、僕の感性の問題も大きく関係することなのだらう。だが、老婆心ながら或ひは要らぬお節介ながらふと心配してしまふのだ。あまりにも歌の寿命が短く、紡がれることなく消費されるばかりの歌で育つたこの子等はいつの日か懐かしむ歌を一曲でも持つてゐるのだらうかと・・・。