Kへ

何の前触れもなく、昔、疑問に思つてゐた事が答と対になつて思ひ出される時がある。今日はそんなお話。
Kと偶然会つたのは20年位前だらうか。ガラガラに空いた電車の中だつた。高校を卒業してから10年後の事である。Kとは同じクラスで彼は野球部だつた。当時、僕の学校は野球がそこそこ強くて甲子園に出場したこともあつた。同級生の中には卒業後にプロ野球に入り、一時四番を打つた男も居た。そんな学校だから男は殆どが野球部員であつた。僕は野球に無縁だつたが、Kは入学から卒業まで野球をやつた。だが、一度もレギユラーになることは適わなかつた。Kは達磨のやうな体型をしてをり、足も遅く、おまけに器用ではなかつた。だからポジシオンを獲れなかつたのは当然だつたし、それは僕でも理解出来ることだつた。僕は彼とはよく話しをしたのだが、僕にはだうしても分からなかつた。レベルの高い奴らが多く、Kがどんなに頑張つてもレギユラーの座は手に入らない。それなのに何故Kは野球をするのだらう?何故辞めないのだらう?それで何か面白いのだらうか?勿論、彼にそんな質問をしたことは一度もない。だからその疑問はずつと分からず終ひだつた。 僕は彼の隣に腰を降ろし、近況を語り合つた。内容は忘れてしまつたが、きつと仕事の事だの行き先だのといつたところだらう。その話の中でひとつだけ鮮明に覚へてゐることがある。彼に「結婚したのか」と聞かれたことだ。僕が「まだだ」と答へると彼は「それだけは勝つたな」と人懐つこい顔で笑つた。それは決して自慢げではなく、嫌味な感じは受けなかつた。だが、僕はある驚きをもつてその言葉を受け取つた。未だかつて僕は彼との関係を勝つとか負けるとかで計つた事がなかつたからだ。同じクラスの話しの合ふ奴であり、それ以上でも以下でもなかった。だから彼が僕をそんな風に意識してゐたのを知つて僕は驚いたのだ。それと同時に自分がいかにノー天気なのかを自覚した。僕は誰かをライバルだと意識したり、目標にしたりした経験がないのだ。
 確か三駅くらひの短い時間だつたと思ふ。僕とKは次の約束をすることなく分かれた。 何の前触れもなく、昔、疑問に思つてゐた事が答と対になつて湧き上がるやうに思ひ出されることがある。あの頃のKへの疑問が解けたのだ。それは至極単純であり、僕にとつて空恐ろしい答だつた。それは「野球が好きだから」といふものだ。自分が出来ることしかしやうとしない僕、最初から自分の限界を決めて実にならぬと判断すれば手を出さない僕、出来さうなものしか好きにならない僕には理解出来ない筈である。僕はその答に気付いた時、今何処でだうしてゐるのか分からないKに呟いた。
「僕は君に勝つた事は一度もないよ」
何の意図があるのかこんな事を思い出させる秋とは厄介なものである。