モノとしてのニコン、道具としてのキヤノン

久々にドライ・キヤビの中からニコンF5を出してみた。特別何かをするつもりではなかつた。忘れてゐた重量感だ。以前はこれを首から提げ三脚を担ぎ、背には交換レンズを幾本か入れて歩いたものだ。今では随分ものぐさになつてしまつてボデイ一台に高倍率ズーム一本といふスタイルが多い。熱が醒めた訳ではないが、写真を撮る機会は少なくなつた。自称銀塩派だが、フイルムを使ふ場面はもつと減つてしまつた。そろそろ機材を本気で整理するかとは思ふのだが、いざカメラを手にするとその気持ちが萎えてしまふ。その気持ちはどのカメラでも多少はあるのだが、特にニコンのカメラではその思ひが強くなる。それはニコンのカメラはモノとしての魅力があるからだと思ふ。僕は今まで色々なカメラを使用、所有してきたが、使ひ易さではキヤノンではないかと思つてゐる。つまり道具としてはキヤノンに軍配を上げる。どのカメラも壊れるほどのハードな使用はしなかつた。だから世に言ふ耐久性や信頼性といつた数字に現れない感想は言ふことが出来ない。そこで操作感などが僕にとつては結構大事な要素になつてくる。ニコンは真面目であり、愚直であり、それ故に今風の言葉で言へばサクサク感がない。その点キヤノンは初めて手にしたモデルでも殆ど取説など必要とせずに撮影体制に入ることが出来る。FDから(性格にはTシリーズからなのだらう)EFにマウント変更し、徐々に操作系を見直し今の完成形までブラツシユ・アツプした。分かり易く、使ひ易いのはその賜物であらう。反対にニコンは通常の手の動きでは触れない場所にロツク・ボタンを配し誤作動を防ぐといつた親切だが、逆に言へば使ひ悪い操作を強いる。それはまるで撮影に入る前の儀式である。ニコンの悪口みたくなつてしまつたが、最初に述べたモノとしての魅力は圧倒的にニコンなのだ。それ故に整理の候補には常に挙がるのだが、対象には成り得ない。大事なモノを手放す、友を失ふ、自分の体から何かが流失する感覚、そんなものに襲はれてしまふのだ。その喪失感はキヤノンの比ではない。これがモノとしてのニコンの魅力なのである。キヤノンにはこのモノとしての力が弱いと僕は思ふ。だが、キヤノンのために言つておくが、実はキヤノンにもそんなモノとしての存在感に満ちた機種がかつてあつた。それは当時巨人ニコンに対抗すべく放つたF−1である。実際、EOS1Vはいつも整理の対象となるのだが、F−1だけはそのリストラの対象にはならない。ドライ・キヤビの中ですでに根を張つてしまつてゐる。