当たり前

遥か昔、小学生の頃の話。担任の教師に言われた言葉で「当たり前と思うな」というものがある。その当時、どういうシチュエーションで彼が僕にそう言ったのかは残念ながら覚えていない。高学年とはいえ、小学生相手の僕らに「自分の目で見て、自分の頭で考えろ」的なことを
しきりに言っていたことを考えると”実験的な精神を養え”という意味だったのかもしれない。冒頭に遥か昔と書いたが、具体的には34〜35年前の話である。彼の「当たり前と思うな」の言葉は僕の記憶の引き出しの中でずいぶんと長い時間しまわれたままになっていた。そしてこの言葉が思い出され、僕なりの意味を見つけ出したのは5年前のことである。僕は5年前に弟を亡くした。世間では毎日人が生まれ、人が死んでいく。数え切れないくらいそれが繰り返されて今がある。でも自分や自分の親族にはそういう時が来るとは露ほども思っていなかった。僕よりも5歳も若いのだから見送ることになるなんて信じられなかった。たとえ暫く連絡が途絶えていても生きているのが当たり前だと信じきっていた。この事件をきっかけに僕の中で当たり前という言葉がガラガラと崩れていった。残骸さえも残さずに当たり前は消えていった。そしてその頃から写真に対する姿勢?も変わったように思う。目に映る何気ない物さえも
愛しく思えるような日々が暫くの間続いた。そしてそれとは真逆の現象も僕の中に現れた。愛しい対象とそうでない対象がはっきりと見えるようになったのだ。そうでない対象と表現したが、実際は憎むべき対象と言ったほうが正確だ。審美眼?が養われたのかどうかは分らない。
ただあまりに極端な二つの感情が自分の中で確立されてしまったことに自分でも驚いた。僕の目は今まで当たり前だった事柄が当たり前でも何でもなく、それらが奇跡のように思われ、愛しいものを見つめる目に変わった。当たり前だと思っていた頃には有難いなどとは思わなかった事柄に感謝するようになった。 これが僕なりの「当たり前と思うな」の僕なりの解釈。弟は5年前の1月に逝った。かの恩師は同じ年の7月に逝った。今年の1月に亡くした愛猫の愛ちゃんは偶然にも弟の命日と一緒の日だった。