不安・心配・神経症

僕は何かと心配性で悲観的なものの見方をする。だから多くの人が大丈夫だろう、と思っていることでもあれこれ心配し、それに備えようとする。相反するようだが、根はもともと大雑把な部分もあるのであれこれ心配しても穴や見落としは多い。えてして用意しておいたところは素通りして、穴や見落としに嵌る。そして自己嫌悪に陥る。楽観的な人が羨ましい。さて、僕の不安、心配は果てしなく広がるのだがこれもその一つ。自宅の前に小さな公園がある。日中は小さな子が友達同士、お母さんと一緒に遊びに来る。夜になると中学生なのか、高校生なのか、もっと年嵩なのか分からないが集まってくる。彼等は缶ジュースやスナック菓子やらを持参して来ているようで喋りながら飲んだり食ったりする。そして食べ終わった物を公園内のゴミ箱に捨てることなく放置して帰って行く。以前にもブログで書いたが、僕が拾ってゴミ箱に入れるようにしてはいるのだが、そう出来ない時もある。朝にあったゴミが夜になってもそのままになっている。そこで僕は心配する。今日、子供達はこの公園に来たのだろうか?誰も来なかったと思いたい。僕の心配は「ゴミが落ちている公園で子供を遊ばせたくない」ではない。そんな気持ちはずいぶん昔になくなった。今の不安は「子供達の目には落ちているゴミが認識されなくなったのではないか」だ。ゴミが認識されなくなった後には、例えばゴミの代わりに鳥や犬、ネコの死体があっても認識されなくなるだろう。そしてそういうモノが落ちていたり、放置されたままでも普通に遊べる子は想像しただけでも恐ろしい存在である。心配のし過ぎ、飛躍のし過ぎだろうか?だったらいいのだけれど。