文明という玩具


処変わればという話をいくつか。名古屋城天守閣にある金の鯱は火災から城を守るためだと聞いた。火に対抗するには水の神を天守閣に頂くということだ。確かカンボジアだったと思うが、かの地では屋根の上に同じ意味で火の鳥を供えるらしい。火には火の神をという訳である。今年、森林の大火災に見舞われたオーストラリアでは日本でいう野焼きのようなことを先住民であるアボリジニが長年してきた。日本での野焼きは土地を活性化させるための謂わば農法のひとつだが、オーストラリアでは違う。人が人為的に野焼きをし、山火事を最小限にしてしまおうという発想らしい。確かに燃えるものがなければ燃えようがない。こういった話は山ほどあって、処変われば同じ行為であっても意味や目的が違ったりするのである。そしてその考え方の違いはどれもが正解なのである。人間の多様性をスタンダードという言葉で一元化しようとする考え方は文明という玩具をたくさん手にした人間の驕りである。