犬、猫を考へる

世の中には所謂ネコ派と犬派がある。この2大派閥は必ずしもはつきりと分かれてゐる訳ではなゐ。ネコも犬も好きといふ人も実際多い。実は僕もこのどつちつかずの仲間の一人である。犬には犬の、ネコにはネコの良さがあり、到底どちらかに決めるなどといふことは無理なのだ。だが、現実的には日本において犬の方がネコよりも冷遇されてゐるやふな気がするのは僕だけだらうか。といふのは犬、ネコに関する言葉を考へた時、だうも犬の方が分が悪い。ネコには「猫かわいがり」「招き猫」「猫まんま」などどちらかといふとネコ讃辞的な言葉がある。それに対して犬の方は悲惨である。「犬畜生」「犬!(内通者などに○○の犬などといふ使ひ方をする)」「犬死」など否定や侮蔑を込めた言葉の方が多くなゐだらうか。ネコの餌=ネコまんまなどと言う言葉があるのに犬にはそれに該当する言葉が見当たらなゐ。まんまに対してエサのままである。犬、猫双方を侮蔑した「犬猫じやあるまゐし〜」といふ使ひ方もあるのだが、これは何故犬の方が先なのだらう。「猫犬じやあるまゐし〜」がただ単に言ひ難いというのは確かだ。だが理由はそれだけでなく、人から見た犬と猫の優劣性、価値基準が語順に隠されてゐるのではなゐだらうか。つまり人は犬よりも猫に重きを置ひてゐるのだ。かういつた犬の言葉の上での悲惨な扱ひを書き連ねるときつとネコ派の人々は「これでネコの方が優れてゐることがお判りになつた?」などとほくそ笑むのだらう。だが、現実的には犬と猫の有用性では明らかに犬の方が勝つてゐる。これはどつちつかずの僕でも認めなゐ訳にはいかなゐのである。例へば犬が人間の仕事の中に入り込んでゐるのは事実である。犬橇、狩猟犬、番犬などの仕事は一般的であるが、他にも災害救助犬、警察犬、かつては軍犬などもあつた。その職種は多岐にわたつてゐるし、その能力の高さから警察犬では一般的な足跡追求、臭気選別、捜索活動のほかに麻薬探知犬、DVD探知犬など細分化されて確立されゐる。犬死といふ言葉とは裏腹に公務中に犬が死亡することがあれば二階級特進、殉職扱いもありさうである。それに比べて猫の方はねずみ退治、ペストの大流行した時代に活躍したことはあるものの今では人間の仕事に殆ど関わつていなゐし、この先も犬の仕事を脅かす存在になるとはなゐだらう。優劣の問題ではなくネコの持つ能力が犬と比較してあまりにも人間の役にはならなゐからである。然し、これは人間の怠慢であると言へる。ネコの能力を見極めそれに即した仕事の研究を怠つてきたのも事実だからだ。我々がいち早く犬の持つ能力に目をつけて使役させてきたのに対し、ネコの方には目を向けなかつた。その結果、犬は長い間愛玩用の地位を得ず、一方ネコはネコ自身に仕事に対する希求心があつてもそれに人間は応じることをしなかつた。家の中でネコは閑職に甘んじていなければならなゐ存在になつてしまつたのだ。ネコの語源に寝る虎といふ説があるが、ネコが寝てばかりゐるのは人がさうさせたのかも知れない。さて、かう考えると役に立つ犬の方がネコよりも大事にされて当然とも思へるが実際は違う。これは何に起因するのか。思ふに犬が群れで生活する動物であるにも関わらず日本では家屋の中に入れてもらえなかつたといふ習慣にあるのではなゐだらうか。逆にネコは仕事はしないものの巧く人と同じ生活空間の中に入り込んだ。家の中で暮らすものと外で暮らすものの違ひがそのまま犬、ネコの地位の差になつたと考へられる。かつて犬にとつて一番ポピュラーだつた番犬といふ役回りが災いしたとも言へる。もし犬が番犬としての才能を持ち合わせてなかつたら一緒に家屋の内で暮らせただらうし、もう少し犬を讃える言葉が多くなつたことだらう。