魚の道、鳥の道

街の電柱に迷い犬や迷い猫の張り紙を見かける。それらしい迷子を見かけたらきつと連絡してやらうと心掛けてはゐるのだが未だかつて保護したり、見つけたりしたことは皆無である。理由は幾つもあるのだらうが、そのひとつに人が通る道と犬や猫が通る道が違うといふことがある。安部公房の小説の中で犬の地図についての記述があるが、それによると彼等の地図は臭覚を頼りにしてゐるといふ。たまたま人の通行する道と交差してゐる場合もあるだらうが、交差する点と時間がうまく重ならなければ出会うことは叶わない。さて、話は犬、猫から離れて魚類、鳥類の話になる。テレビや映画などでよく見る映像で魚の大群が一糸乱れずに泳ぐシーンがある。また大空にV字編隊を組んで飛ぶ鴨達の姿もよく見る。僕はあの映像を見て、いつたいだうやつて先頭から末端に至るまで統一した行動をとることが出来るのだらうと不思議の思ふのだ。リーダーとなるものが指示を出してゐるのか。だとしたらそのリーダーは群れのどの位置にゐるのか。先頭か、中断か、はたまた最後尾か。更に言語による意思の疎通や伝達方法を取らない彼等はどのやうな手段で指示を送受信するのだらう。所謂テレパシーといふ能力でも持ってゐるのか。さうだとしてもリーダーは一括して仲間に指示を送信してゐなければあのやうな統一行動は無理だらう。さう考へるとだうにもテレパシー説も怪しくなつてくる。ではだうやつたらあれを説明出来るのか。そこで僕が無い知恵を絞つて生み出したのが「魚の道・鳥の道」説である。冒頭で人の地図と犬、猫の地図の違ひを書いた。動物の臭覚による地図を人の目で見る事は不可能である。仮にそれが我々の知つてゐる地図のやうに紙に書かれたものだとしても白紙のままである。臭いに色があれば別の話だがそんなものはなゐ。海や空にも我々人間の目には不可視な道があるとすると件の魚や鳥の話にも一応の合点がいく。海中には魚の目には見ることの出来る道があり、彼等はその道の上を泳ひでゐるだけなのだ。鳥も然りで大空には飛行機のコースのやうに鳥の道が存在するのではなゐか。彼等のリーダーは高速道路の先頭車両のやうなものなのだ。先頭車が速度を落とせば後続がそれに倣う。彼等には道が見えてゐるのだからコースを外れる心配はなゐ。これが今のところ僕の出した彼等の見事な統一行動を説明する結論である。