「悋気は女の慎むところ、疝気は男の痛むところ」

「釣つた魚に餌をやらない」といふ言葉がある。釣り上げるまでは知恵を絞つて工夫して何とか魚を釣らうとする。だが、いざ釣り上げてしまふとその後は興味の対象が次の獲物に移つてしまつて得た魚には見向きもしなくなる。当然のことながら魚は比喩である。魚であれば文句も言はないだらうが、人であればさうはいかない。釣つた魚に餌をやらないばかりか、次の獲物を得んとすれば釣られた魚は悋気をおこす。さて、僕の狭い家にカメラと蔵書だけの部屋がある。通称カメラ部屋といふ。ここにはかなりの数の本とカメラが詰め込まれてゐる。読まれた本もあれば積読のままの本もある。使ひこまれたカメラもあれば未だに一度の出動機会も得ずに待機中のものもある。そこへもつてきてまた新しいカメラをこの部屋の主人が買つてきたりする。主人の寵愛を受けたことのないカメラはさぞかし悔しい思ひをしてゐることだらう。気まぐれに(僕は定期的のつもりなのだが)空シャッターを切り、「今度な」とは思ふ。だが「今度とお化けは出たことがない」の伝への通り、待てど暮らせど活躍の場を得ずである。きつとカメラ部屋の住人達は新入りのカメラと僕にめらめらと悋気の炎を燃やしてゐることだらう。さう言へば近頃胃の腑の辺りが痛むことがあるのだが、これは疝気なのかカメラたちの呪いなのか。