夢カメラ

物事を始めるにあたつて形から入る人がある。僕もその一人である。最初にカメラを買つたのはオリンパスOM-1だつた。中学生の時でアルバイトしたお金を吐き出して買つた。50mmのレンズ1本だけで満足だつた。もつともその頃はまだレンズに広角や望遠があることすら知らなかつたのかも知れない。その後、暫くの間カメラから離れてしまつた。再開した時にはオート・フオーカスが主流であり、ミノルタのα7xiを買つた。インテリジエント・カードなるものが別売りされをり、有名写真家風に撮れるカードもあつた。形から入る僕はそのカメラとカードがあれば、浅井慎平のやうな写真が撮れるんだと夢想したものである。実際さうはうまくは行かないのだが、それでも懲りずに森山大道がリコーのGRを使つてゐると聞けばGRを買い、コンタツクスだのハツセルだのと底の知れぬカメラ地獄を彷徨つた。結果、コンパクトから中判までドライ・キヤビに収まらないほど増殖してしまつた。好きで始めたことなので後悔はないのだが、時々これでいいのだらうかとは思ふ。上がつてきたプリントを見て(駄作が圧倒的に多いのだが)その気持ちは一層強くなる。つまりこのカメラがあればきつと素晴らしい写真になるに違ひないといふ夢が儚くも破れた瞬間である。さう考へるとカメラ・メーカーは熾烈な技術競争だけでなく、人に「これがあれば!」といふ夢も製品に付加しなければ商売として成功しないといふことかもしれない。数字で表されるスペツクといふデジタルなものを人の夢といふアナログなものに上手に変換した商品が売れる条件なのだらう。銀塩カメラの場合はボディにレンズを付けて、重さ、質感、フイーリングなどを店頭である程度知る事が出来た。買つてから写真を撮り、プリントが上がるまでの間が夢を見てゐる時間になる。だがデジタル・カメラはそれに加へて撮影した絵がその場で判る。さうなると夢を見てゐる時間も以前に比べて短くなつたことになる。忙しい世の中ではあるが、いい夢は出来るだけ長い方がいいやうな気がする。僕はいつの日かきつと森山大道氏のやうな写真が撮れることを夢見てこの先も挫折や嘆きを繰り返す。形(カメラ)がある限り、僕は何度でも夢を見ることが出来る。