言葉の裏に在るもの

めぐりが悪いといふのは困つたものである。人の話の意図するところが見へず言葉の表面ばかりを追ひかける。いつまで経つても埒があかない。何を隠さう僕自身のことである。かつて親不孝の限りを尽くしてきた僕だがここ何年かはだうにか親とのいい関係を保つてゐる。先日の親との電話で「変わりはないか」と僕が問ひかけるとどこどこが悪いやうだと自分の診立てを平然と話す。挙句は「あと何年も先がある訳じやなしあまりきちんと検査なんぞしても仕方ない」と嘯くのだ。こちらとしても「まあ、歳だから確かにさうだね」とも言へる筈もなく、定形文のやうに「そんなこと言わずに大事にしてくれ」と言ふほかない。大概の会話がそんな感じである。病院で精密検査を受けるつもりもないくせに何故いつもそんな話をするんだらう?と常々僕は思つてゐた。だがこの親の言葉がある日何の前触れも無く違つた意味であることに気付いた。要するに本の少し心配をしてもらひたいのだ。時々顔を見せて欲しいといふことなのだ。それがいい事なのかさうでないのかは判らない。だが明日にでも自分の病院の帰りに寄つてみるつもりではある。