敬老の日

Elmar52010-09-21

昨日は敬老の日だつた。ラジオ番組で永六輔氏が今の世は老人にとつてきついと言つていた。知識ばかりで知恵のない社会は年配者には生き難く、邪魔者扱ひされる。確かにその通りだらう。この責任の所在は何処にあるのか。定型文のやうに国や社会、世の流れにそれを求めることも出来るだらうが、それだけではないと感じる。僕らも年配者に知恵を求めなかつたし、彼らもそれを進んで伝へなかつた。知恵は科学工業が代役を引き受けてくれた。使つても摩滅せず、金もかからない知恵=財産はさうして失はれていつた。絶滅した動物は運が良ければ博物館にその痕跡を残す事が出来るが、元々形のない知恵は伝へる人がいなくなつた時点で消滅してしまふ。
[写真:シグマDP-1]犬のくせに犬嫌いで、子供の頃から他の犬と一緒に遊んだ経験はない。よその犬がじやれてきてもノコにしてみれば迷惑な話でしかなく、逃げ回り、挙句の果てに僕の足元へ来て助けを求める。他者(=他犬)との接触がないから何時まで経つても子供のままである。それは顔にも出るのかノコには老成した感じがまるでない。目は濁り、髭にも白いものが混ざつてきたのだが表情は子供のままである。それでも敬老の日の主人公になれるほどにかなり歳をとつた。人間に例へるなら80歳を超へた頃だらうか。