ゴミ溜めを考へる

たまにニユース番組などの特集で「ゴミ屋敷」を取り上げることがある。テレビを見ながらどうしてこんなになるまで溜める?集めるのだらう?と考へるのだが分からない。当然である。きつと当事者も分かつていないと思ふ。それでも人間は理解し難いことをそのままにしておきたくない心理が働くものである。そこで理屈を考へてみる。先ずこのゴミ屋敷の成り立ちから迫つてみたい。ゴミが溜まるのはゴミを捨てないからである。食品や新聞などゴミになる前の物も使用後にはゴミ(今は資源と表現すべきなのか)になる。家に持ち込んだ量、容積よりも捨てる量、捨てる容積が小さければゴミは溜まる。かうして徐々に家の中はゴミに占拠されていく。何度もこの状態を改善する機会はあつたのだらうが、それを逃してしまふと簡単に捨てることが出来なくなる。何故ならば、捨てる物とさうでないものの区別が付き難くなつてくるのだ。本人の整理する能力を超へた時、必要、不必要の判断が出来なくなるのだ。早い段階であれば苦労なく判断出来たものが、その期を逸すると「もしかしたらいつか使ふかも」となつてくるのだ。捨てるのが面倒だからそんな言分けをするのも事実だが、決してそればかりではない。僕にはゴミ集めの性癖はないが、この気持ちは良く分かる。以前マミヤのRB67のフィルム・ワインダーを買つた時のことである。僕は68といふフオーマツトが好きで(フイルムが無駄なく使へるといふケチな理由から)これで67は使はなくなつたのだから早めに売るつもりでゐた。だが、ぐずぐずしてそのままになつた。暫くしてからそれを発見した時、「これ売らなければ」と一瞬思ふのだが、「そのうち使ふかもしれない」とすぐに考へ直すのだ。こんな例へは沢山あつて、古いレンズのフードの話もある。MFのレンズを中古カメラ店から買ひ入れる。大概レンズ本体だけで純正のフードまで揃つてゐるものは少ない。そこで今度は純正フードを探し回るのだが、中々見つからない。諦めて汎用のゴムフードを買つて我慢してそれを付ける。すると間の悪いものでひよいと純正が手に入つたりする。これでゴムのフードは用済みの筈なのだがやはり放つておく。すると1個のゴムフードが2個になり4個になりと増へる。適当な数になつたらまとめて用品として売らうと考へる。かうやつて物は増殖するのである。
そして人の整理能力の限界を超へてしまつたら後はなしくずし的にこの連鎖が続く。僕の場合はそれらの増へてしまつた物を見て「これは何故ここに在るのだらう?」と買つたことさへ忘れる始末である。挙句に「こいつらはきつと夜になると繁殖してゐるに違ひない」と思ふのである。さて、僕にはゴミ集めの性癖はないと前述した。だが、ゴミを集める、又は溜めるメカニズムにはぴつたりと嵌つてゐるやうである。どんなものにしろ収集癖とはそんなものなのだらう。放送を見ながら内心「他人事ではないかも・・・」と自分に恐れを抱くのである。現に当初書斎として使ふ目的だつた部屋はカメラやその箱に占拠されてしまつてゐる。もし僕が考へるやうに彼らが繁殖してゐるのであればそのうちニコンだの、キヤノンだのの旗が立つに違ひない。