「渡世人」その2★棒の折れ山

月氏の小説は殆ど読んでゐるつもりだ。この「渡世人」は今まで読んだ作品と少し赴きが違つてゐるやうに思へる。シリーズ物の紋重郎は別にして他の小説の主人公は大概死んでしまつてゐた。ところがこの「渡世人」では板割の浅太郎は途中で死なず、井戸の縁にしがみつき咽び泣くシーンで終わる。「干潟のピンギムヌ」では少年が、「鬼押」ではやはり少年が志半ばで圧倒的な権力を持つものによつて命を落とす。違ひは生き死にだけでなく、「干潟〜」「鬼押」が労働者であるのに対し、「渡世人」は無頼である。便宜的に分ければ一方が「正直者が馬鹿を見る」であり、「渡世人」はその反対側の人間である。ここで便宜的にと断つたのは訳がある。職業や生き方は一見両極にあるのだが、実はさうではない。何れも同じなのだ。大まかな言ひ方になるが、持つ者と持たざる者といふ分け方をすれば両者にさほどの違ひはない。個人対権力と言つてしまつても間違ひではないだらう。善良であらうが、アウトローであらうが対峙する相手方は強大な力を持つ得体の知れない何かなのだ。何かとは国であり、会社である。この化け物たちはささやかな人間の希望さへも自らを維持していくのに不都合であれば容赦なくその芽を摘む。挫折させられ、悪くすれば命を落とすことになる。「干潟のピンギムヌ」や「鬼押」ではさうやつて落命した主人公に代わつて弟や友人に話の続きを語らせる手法を採つてゐた。然し「渡世人」ではさうした展開ではなく主人公浅太郎に最後まで生かす。これを残酷と読むか、希望と読むかは読者によつて意見の分かれるところだらう。作者はどちらを意図したのだらうか。僕は希望として受け取つた。
★昨日は実にいい天気だつた。いささか出る時間が遅れてしまつたが、かねてから登つてみたかつた【棒の折れ山】に
むかつた。低山であつても初めての山。ネツトで多少の知識は仕入れたものの自分の足で歩いてみなければどんなものなのか分からない。午前十時四十分に白谷沢登山口に取り掛かる。沢あり、鎖場ありの変化に富む楽しいコースだ。
銀塩のフジフイルムのGA645ワイドとデジタルではリコーのGRデジタルⅢにワイド・コンバーターを装着したものをリユツクに仕込む。だが、何せ時間がない。写真を一枚も撮らずにピツチを上げる。それでも岩茸石(ゴンジリ峠まであと少し)でタイム・アツプ。暗くなる前に下山することにした。車を停めた【さわらびの湯】で温泉に浸かつて汗を流す。丁寧にマツサージをしたつもりだが、今日は足と肩が筋肉痛。翌日痛く感じるのはまだ若い証拠?