背番号19

昨日のパ・リーグ、クライマックス・シリーズの敗退で楽天監督野村克也氏の現場指揮官としての野球が終わった。
彼の存在は南海時代、西武時代から知ってはいたが、本格的に知ったのはご贔屓球団であるヤクルトの監督からである。広岡監督在任中に優勝はしたもののその後は万年Bクラスに低迷していたチームを救ってくれたのが野村監督だった。野球選手では誰が好きか、という問いに多くの人が長島、王の名前を挙げるだろう。僕の場合、性格がへそ曲がりなせいもあるが特に長島が好きになれない。その理由は彼の常人には理解出来ない彼の天才性にある。巨人の監督時代、長島の作戦は勘ピューターなどと言われたことがある。「え!」とか「ん?」と思う作戦がズバズバと当たったものである。選手時代から長島の奇怪とも思われるエピソードは事欠かない。それらは表面だけを見るとバカのようにも思える。だがいくらヒマワリ役の長島といえどもバカだけでは結果を出し続ける事は不可能だろう。では一体全体長嶋茂雄とは何ぞや。その疑問を解くべく僕は僕なりに彼について考えてみた事がある。そして出た答えは彼には人並み外れた集中力があるのではないかというものだった。意識的に物事に集中するのではなく、無意識にそれが発揮出来てしまうと考えた。常人は何か物事に取り組んでいても回りの刺激に対して無意識にアンテナを張っている。だから話しかけられれば返事をするし、今までしていた事を中断してそちらに仕事をシフトする事も出来る。それは頭(=脳)が一事に全ての能力を傾注することなく出来るだけ広範囲に気を配るような仕組みになっているからではないか。これが出来ないと動物は生存することが危うくなってしまうのだ。だが長島の場合は他のことはスポイルされて野球の事にのみ頭の能力が使われているんではないだろうか。それが勘ピューターなのだと思う。僕の考える勘とは経験や知識などの集積により導き出された答えである。過去にあった事柄(=経験)、聞いた話、読んだり見たりした事(=知識)などは思い出せなくとも自分の中から消え去ってしまった訳ではない。表層上に現わす事が出来ないだけで情報として残っている。つまり引き出しの中にしまわれているのである。それらがある刺激に対して瞬時に同時多発的に反応する。それによる解が勘なのではないか。通常は問題があって式を解き、答えが出るという手順を踏むのだが、勘は問題があり、即答えがある。途中が見えないので常人には何故そういった結果が出たのか理解出来ない。それが長島なのではないだろうかと僕は考えた。その対極にあるのが野村ではないかと思う。一つずつ理詰めの野球をする。だから解説されれば「なるほど」或いは「なんだそんなと当たり前だろう」と僕等は理解出来る。つまらないといえばつまらない野球なのだが、その手法は手が届かない天才よりは凡人には希望が持てる。そして野球に限らず多くの社会で当たり前の事が当たり前になされていない。そこにつけいるチャンスがあり、人が浮上する可能性がある。野村監督の野球、ベース・ボールに対する貢献は枚挙にいとまがない。現代の野球を作ったのは彼の業績だと思っているがその辺の話はまた別の機会に譲りたい。考える、手を抜かず行動する。さすれば何人にも道は開ける。僕が野村監督が好きな理由はそこに集約される。