偏執狂的本の読み方

何かのきつかけから興味を持ち始めるといふことは良くある事である。そしてそれが気に入るととことんのめり込む。僕の場合は音楽や本(小説やエツセイなど)にさういつた傾向が強くある。きつかけとなるのは多くの場合ラジオからの情報である。例へば確か小学生だつたか中学に入学したばかりの頃の話。AMの文化放送の番組にラジオ・ドラマがあつた。そこで聞いたのが遠藤周作怪奇小説集に収蔵されていた「新春、夢の宝船」?とかいつたSF小説だつた。毎回わくわくしながら聞き入り、昂じて「海と毒薬」「影法師」などを経て「沈黙」が最後に読んだ氏の作品ではなかつたか。僕の今まで生きてきた時間の中であの頃ほど本を読んだ期間はなかつたと思ふ。それこそ貪るやうに読み漁つた。ただ僕の読み方は偏執狂的である。一人の作家を読み始めるとその作家の作品を追い続けて根こそぎ読む。よつて広く浅くではなくディープな読者である。きつと性格なのだらう。今の歳になつてもその傾向は同じである。ラジオ・ドラマが少なくなつた最近では中波に乗つてやつてくる本との出会ひは少なくなつてしまつた。精々TBSラジオのブック・ナビくらひが情報源である。 時々テレビがきつかけになることもある。麻生幾佐々木譲などはテレビ・ドラマで知つた口である。大概テレビや映画よりは原作の方が優れてゐると感じるものだが僕の場合、佐々木譲の「警官の血」はドラマに軍配を上げる。小説は上下2巻の長編なのだがそれでも紙数が足らなかつた感がある。祖父、父、孫の3代の話なのだが前半は書き足りぬ部分があり、後半は端折つて結末にしてしまつた気がする。その点ドラマの方が丁寧に描かれていた。面白くいい作品ではあるのだが少し残念な気がする。近頃はその佐々木譲の小説にどつぷりと浸かつてゐる。