写真は自己満足が一番

あくまで僕の知る狭い範囲での話であることを先ずはお断りしておく。世の中には様々な職業があるが、その中でも写真を生業としている人には偏屈が多い気がする。ブライダルフォトグラファー、営業写真館などの人と仕事を含めて何人かと付き合ったがどうもしっくりこない。変わらずにお付き合いさせて頂いているのは行きつけの写真館1件とカメラ販売をしている1件だけである。実はこの2件の店主に自分の写真屋さんに対する気持ち、つまり「偏屈である」「変わり者が多い」といった感想を言ったことがある。勿論「ここは別だけど」という断わりを付け加えた上である。それに対してカメラ販売をしている店主は「写真師は先生だからな」と答えた。浅井慎平篠山紀信などを写真家というのに対して、営業写真館は写真師という。写真家になるのも写真師になるのも特段の資格はない。写真学校や大学の芸術学部の写真科を卒業した者もいれば家業を継いだ者、営業写真館で働きながら独立した者、そのスタートは様々だ。写真師組合には開業する地域で2件の同業からの推薦があれば組合に加入できる。写真師になると何故か先生と呼ばれるようになる。その先生という言葉には物事を人に教えるという意味ではなく、どこか芸術を担っているかのような匂いがする。僕が偏屈だと思う写真師の人達からはそういった高慢さが共通している。 もう1件の写真館の店主は「ああ、やっぱりそう思う?そうなんだよね」と言った。この写真館は親族2人で何十年と切り盛りしているのだが先日同じことをもう一人から言われたそうだ。詳しくは「この世界の人とはずっとは付き合えない」と言い切ったそうである。僕はその場にいた訳でもないし、話の流れも分らないので僕の気持ちと同一かどうかは知らない。だがら単純に”我が意を得たり”などとは考えはしない。だがその世界で仕事を何十年もしてきた人の結論がそういった感慨だとしたらやはりここに住む人には少なからず人間的な問題があるのだろう。 僕は去年の秋にカメラを全て処分し、写真を辞めようかと考えた。それはある写真師との諍いが原因だった。結局僕はその思いを何とか止めたが暫くの間鬱積した気持ちで過ごさねばならなかった。そして長い逡巡の後、僕はまた写真を撮り始めた。何の為でもなく、誰の為でもなく”徹底的な自己満足!”の為に。