フラッシュ・バック

僕の手元には自分のアルバムというものがない。捨ててしまったのか、或いは今でも親がどこかに仕舞い込んでいるのか。以前学校アルバムに使う写真撮影の仕事をした後、暫く経ってから「このアルバムに収められている僕の撮った写真はこれから何年或いは何十年かは残るのだ」と気が付いた。ある生徒は過去を封印したくてアルバムを捨ててしまうかもしれない。ある生徒は何年かして恋人とそのアルバムを開いて微笑み会うかもしれない。そしてもっともっと先の話、嫁入り道具の中にこのアルバムも紛れ込むのかもしれない。そんなことを想像してみた。僕の本業は写真家でも写真師でもない。何年、何十年という単位で何かが残る仕事ではなく、その場で消費されて終わる仕事である。それがいいとか悪いとかの話ではないが、自分のした仕事が長い時間残るというのは僕にとって特別感慨深いものであった。自分の死後も形として残る仕事をしたことに充足感と空恐ろしさを感じたものだった。写真には麻薬的なところがある。花や風景、街のスナップを撮っていてもそれだけでは満足出来ない気持ちがむっくりと出てくる時がある。もうこの先以前のような取っ払いの仕事間違って舞い込んだとしても受けることはないだろう。どうやってこのフラッシュ・バックのような感覚を飼いならせばいいのか思案しているこの頃である。