思い出の眠るネガ

小学生の頃、恩師が「職業に貴賎はない」とよく言つてゐた。子供ながらに成る程なと思つた記憶がある。養老孟氏は「仕事とは道路の穴を埋めていくもの」と著書の中で語つてゐる。今の世の中、訳の分からん横文字仕事や職業が溢れてゐる。その反面、真面目にこつこつと仕事に精を出してはみるものの少しばかり人付き合いが下手だつたり、要領が悪かつたりするだけでうまくいかない気の毒な人も多いことだらう。先日テレビに片付けコンサルタントだかコメンテーターだか、そんな肩書きを持つた若い女性が出てゐた。いくつかの処分候補があつて、その中に写真のネガがあつた。古いネガは捨てるべきか、否かといふ問題に対して、「捨てる、絶対に焼き増しなどしない」と言ひ切つた。確かに焼き増しなどしないだらうとは僕も思ふ。だが、思い出が転写されたネガを人が持ち続けるのは焼き増しするかしないかだけの話ではない。捨てられないのだ。捨てるには相当の覚悟と痛みが伴うのだ。自分の肉を削ぎ落とす様な痛み、自分から何かが剥がれてしまふ感覚。彼女はそんなことを知つてゐるのか知らないのかは分からないけれど一刀両断する。世の中がフイルムからデジタルに移り変わつてもそんな人間の気持ちは昔のままだ。だからデジタル化されたデータでも消去するのに躊躇してしまふのだ。そんな気持ちを僕はよく理解出来るし、デジタルになつて膨大な量のデータを持て余してしまふ人に親近感を覚へる。