マラソン

遥か昔、中学生だつた頃、冬の体育の授業と言へばサッカーかマラソンだつたやうに覚えてゐる。マラソンといふ競技は辛いもので走りながら「あの電柱のところまでは頑張らう」と考へ、その地点まで達すると次は「あの商店の角まで」などと自分を騙しながら?励ましながら走つたものである。僕のやうな若輩者がこういつたことを口にするのは生意気な気もするが、最近つくづく人の一生をマラソンになぞらへて考へてしまう。当たり前の話だがマラソンにはスタートがあり、ゴールがある。人も生れ落ちた時がスタートだとすれば死ぬ時がゴールといつていいだらう。かつて日本人の平均寿命がもつと若かつた頃はスタートからゴールまでの距離が短かつた。更に時代ももう少し優しく、60歳まで懸命に走り続ければ後は惰性でゴールまでたどり着く事が出来る、などといふ話もあつたやうだ。だが、競技の途中でいきなり距離が伸ばされたとしたらだうなるか。今までゴールだと思つていた地点がゴールではなく、まだまだ先だとしたら。若い頃のやうに「あの電柱のところまで」「あの商店の角まで」と自分に言い聞かせながら走ることが出来るだらうか。年齢を重ねた人に直接聞ひた訳ではなゐが高齢の方々はガス欠寸前の車で高速道路を走らされてゐるやうな気持ちなのではなゐかと想像する。自分の時間、お金を考へ合わせながらひた走る。距離がいくら伸びても皆が完走出来る社会であることが望ましい。タイムや記録に関係なくゴールには花束を持つたギャラリーと沢山の拍手があつて欲しい。