石月正広氏の最新刊『神が自殺をえらぶとき』を読み終へた。
 物語はある神社の宮司の自殺から始まる。宮司は自分の死後、本殿の管理を頼むといつた内容の遺言状を親友である小津に残した。彼は本殿に入りそこを調べていく裡に〜うむ、今回はミステリー仕立てですか、と勝手に想像を膨らませてみたもののすぐに違ふと思ひ知らされる。では、寓話なのか。一言で寓話とジヤンル分けするのも抵抗がある。石月さんの作品は一筋縄ではいかないものが多い。一つの作品の中に歴史読物的な要素があつたり、冒険譚的な要素があつたりする。そこに娯楽性も入つてゐるので猶更だ。考へてみれば○○小説といつたジヤンルに嵌め込む行為は何なのだらう。石月さんの小説を無理矢理枠に押し込むと、作品よりも押し込んだ読者の方が居心地の悪さを感じてしまふ気がする。さて、形式的には自由奔放、多種多様な石月作品ではあるが、中身には一貫したものがある。これも言葉にすると薄つぺらく感じてしまふのだが、それは批判精神であり、反骨であり、人間愛であり、無常観であり・・・やはりこれも上滑りした感があるのだが今回の作品にはそれらの要素が比較的ストレートに描かれてゐる。鶏が先か、卵が先か、国が先か、民が先か?両手に文明を手にした民は、今まで持つてゐ何かを手放してしまふ。その結果、思考停止に陥る。文明はかつてDNAに染み込んでゐた神への畏れ、自然への畏れもきれいに洗ひ流し、民は暫し全能感に浸る。そして悲劇は足音もさせずにひたひたと近付く。鍾乳洞に住む小さき人々にやがて訪れる運命は、地上に住む我々の運命をも予感させる。**************作者である石月さんから『忌憚のない感想を〜』とのコメントを頂きました。お言葉に甘えて勝手気儘に書かせて頂きます。失礼なこと、まるで的外れなこともあるかと思ひますがお許しください。今回の作品のテーマは重たかつたですね。書き終へた後に相当の疲労が残つたのではないかと想像します。個人と組織や国とのあり方は、以前の作品の中でも度々取り上げられてきました。読者が感情移入しやすい登場人物があつけなく殺されてしまふ展開に毎回いい意味で裏切られます。読者はその扱ひに戸惑ひ、時に失望し、多少不満に思つたりするのですが、それでも今までの作品では殺された彼らに続く若い芽が続くといふ救ひがありました。然し乍ら今作品にはそれらしい展開がないやうに感じます。そのことが作者の苦悩を感じさせるのです。苦悩を通り越して達観してしまつたのか。諦めてしまつたのか。朱雉羅王は死に、郷司明良は自殺し、そして小津と新しい宮司が残されました。小津と宮司は今に生きる僕らです。僕らは今後を委ねられたのです。では僕らは、いや、僕は何をすべきか。作者は突き付けます。民主主義も共産主義も僕は道具であると考へます。方便なのではないでせうか。使ふ側がうまくコントロールしなければなりません。それが出来なければそれなりの結果が出ます。使つた人は当然のこととして、それを傍観した人も、反対した人も等しく責任を負はされます。たまつたものではありません。それでもとことん失敗すればいいのです。きつと人間は自分が思ふ以上に頭の出来が良くないのです。子供が転びながら歩行を学ぶやうに怪我をしなければ
手にできないものがあることに気付くべきです。民主主義でうまくいかなければ共産主義をやつてみてもいいでせう。
それが駄目なら王制でも、また民主主義に戻るのもいい。批判精神としなやかさを併せ持つことが肝要だと思うのです。『神が自殺をえらぶとき』の感想になつたか些か不安ではあります。僕が常々感じてゐることをだらだらと書き並べてみました。笑つてお許し下さい。