国民が必殺仕置人化する


最初に断つておくが、僕は民主党や小沢議員の支持者でもなければ個人的な知り合ひでもない。だからここでは一切の政治的な色彩を排除した上での話である事を分かつて欲しい。話は検察審査会が小沢議員を強制起訴した事である。巷間言はれてゐるやうに検察といふプロが寄つてたかつて捜査し、その結果起訴することが無理、裁判でも立証出来ないと判断した案件を裁判所ご指名の弁護士がひつくり返すのは相当難儀なことであると推察される。白ではないが、黒とも言ひ切れないといふのがプロの結論である。だがこの審査会ではあまりその辺りの事を重要と考へないやうだ。検察機構といふブラツク・ボツクスの中で行はれた捜査を良しとせず、裁判といふ場に再度引つ張り出すのが重要であり、それが国民の知る権利であると言ふ。被告となる人間が政治家だからこれほどまで大騒ぎになるのは頷けるが、これではまるで公開処刑である。法で裁けなければ民が裁くといふことである。国民感情の中に必殺仕置人的な空気が広がつてゐるやうな気がして不安になる。これにはマスコミが大きく貢献してをり、常に主導的な役割を果たす。毎度御馴染みの正義を標榜しながら人を叩いて飯を喰ふといふ単純な構図だ。検察審査会といふシステムをお飾りにしておけと言ふつもりは全くない。だが、正義の名の下に権利を拡大解釈して本来のあり方以外の使ひ方をするのは些か危険な気がする。裁判の結果がだうなるかは分からない。仮に有罪であればこのシステムの有益性とこの流れを作つた自分達を自画自賛し、無罪になればシステムの脆弱性を叫ぶことだらう。彼らにヒール役として選ばれてしまつた人はだう転がつてもいい目は見ないのだ。