体に覚へさせる!

僕が学生だつた頃、近世文学といふ授業があつて担当教官はT先生だつた。近松門左衛門が専門だつたと記憶してゐる。面目ない話だが、どんなことを習つたのかまるで覚えていない。苦手だつたし、授業にもきちんと出なかつたのだ。出席カードを誰かに出させてエスケープ。T先生とは草野球の試合をしたことだけが僕の記憶である。卒業して何十年と経つて、江戸の町が舞台になる小説なぞまさか読むことになるとは思つてもみなかつた。あの頃、もつと身を入れて勉強してたらと後悔してゐる。きつとより深く、より楽しく小説を読めた筈である。歳をとつてからでも勉強するに遅くはないとは言ふ。だが、本当は遅きに失するのだ。覚へが悪くなる。分からない言葉を調べ、その時は分かつた気になるのだが、すぐに忘れる。そこでまた調べる。そして分かつた気になり・・・。それの繰り返しである。何だか犬が自分の尻尾を追ひかける姿を連想する。何時までも食ひつけない自分の尻尾と何時までもものにならず同じ動作を反復する僕。やつとのことでこの方法ではうまくいかないと理解し、違ふ作戦を考へた。百円店で帳面を買ひ、調べたことをそこに書き込むのだ。頁の右上に作者と作品名を記し、鍵括弧で単語を囲み、意味や用法などを書く。頭で覚へきれなければ手に覚へさせやうという魂胆だ。体で覚へたことは忘れないと聞く。果たして僕の思惑通りになつてくれれば結構なのだが・・・・。