自決

人と動物の差異はたくさんあるが、その一つに自己の生命について「生きる」「死ぬ」の選択が出来ることがあると思う。つまり自殺することが出来るか否かである。断っておくが僕は自殺を認めはしない。だが、現実には不幸なことに日本では年々自殺者が増えている。さて、ここ何年かに起こった重大事件のうち犯行動機が「死刑にしてほしかったから」というものがいくつかあった。娑婆では仕事もない、身寄りもない、ならば罪を犯して捕らえられていたほうが食ってはいける、などという理由から犯罪を繰り返す人もあるらしいが、こういう輩はまだ生きることに前向きと言えなくもない。「死刑にしてほしかった」という人間の犯罪は凶悪で被害も甚大なものが多い。死刑になるのが目的だからそのような判決を得るためには被害者も多く、極悪非道の犯行をするというのは理屈ではある。死ぬためには万引きや空き巣狙いなどでは死刑の求刑も判決も得られないからだ。ここで今日のブログの冒頭に書いた話にもどるが、人は自ら死ぬことを選んだり、それを実行したりすることが出来るのだ。ところが、件の犯人達はそういった自らの命の与奪権(決して自殺の場合は権利ではないのだが、便宜上この言葉を使わせて頂く)を他に委ねてしまう。確かに自殺は怖いだろう。だが、人を殺す、人を死なすというのは被害者にとって怖いどころの話ではない。自ら死のうとした時の恐怖は理解出来ても、他人が命を奪われる恐怖は理解出来ないのか?彼らは死刑になる時にやっと自ら手をかけた人々の恐怖を理解するのだろうか?それともやはり何も理解しないまま死んでいくのだろうか?