安心を買う


カメラをぶら下げて散歩をしていると色々なものを見つけることが出来る。足で歩ける距離は高が知れているが自転車よりも車よりも発見出来る情報量は多い。これも散歩の途中で見つけた初めて見る形の鍵。鍵の歴史を詳しく調べた事はないが、一番古いものはおそらく紙だったのではないかと想像する。観音開きの扉を閉めた状態でその両扉にかかるように紙を貼る。紙で出来ているので破いて中のものを見たり、持って行ったりすることは造作も無い。だが、破いてしまえばその痕が残るので誰にも分からないようにという訳にはいかない。誰も見ていないかと周囲を見回してみる。人が見ている気配がなくても何かが見ているかもしれない。それが神様なのか、仏様なのか、霊なのか、ご先祖様なのか。いずれにしても破くことには抵抗を感じる。抵抗があるということは脆弱な方法であっても鍵としての機能は果たしていることになる。映画のように針金で開いてしまう鍵もあれば、千両箱が保管されている蔵につけられた精巧な南京錠もある。紙で出来た鍵も同じである人には簡単に開けてしまうことが出来、またある人にはどうしても開けることが出来ない。人の良心に依存する鍵がある世の中というのは少なからずそれが機能しているから存在しているのだろう。まるっきり機能しなければ存在価値がなくなり早々に頑丈なものに取り替えられるに違いない。今の世の中セキュリティが必要なことは十分分かるが、安心を買わなければならないというのは寂しいことだ。本来安心は築いていくものなのだから。