思考停止

森達也著の「放送禁止歌」という本を読み終えた。1999年5月23日の明け方にテレビ放送された番組「放送禁止歌〜歌っているのは誰?規制するのは誰?」という番組放送後4年経過してから出された本である。この本によると「放送禁止歌」という名称は正確には「要注意歌謡曲」というらしい。誰が歌を適正と見なし、誰が要注意と決めつけるのかというと民放連である。だがこれはあくまで指針ということであり、放送するかどうかの判断は各放送局の裁量によるというのが建前になっている。禁止ではないので強制力はなく、放送したからといって罰金だの制裁金だのということもない。ましてや天下のNHKは民放ではないので民放連の作成した要注意歌謡曲リストなどを気遣ったりする必要はない。だが、現実はどの放送局もがこのリストを元に同じ対応、つまり放送禁止に走る。この本にはいくつかの禁止措置となった曲が紹介されているが、その大半は「竹田の子守唄」にページが割かれている。実は僕はこの曲が禁止リストに入っていることを知らなかった。小学生の頃慣れ親しんだような気がするし、山本潤子のCDでも聴いていたのでまさか禁止されているなどとは思ってもみなかった。考えてみれば放送禁止にはなっていてもレコードやCDが発売禁止になっていなければ耳にすることは出来た訳だ。逆に言えば発売禁止になっていないからこそ放送禁止に指定出来るということだ。発売されていないものは放送する術がない。話を戻すと「竹田の子守唄」の歌詞の中で
♪早もゆきたや この在所越えて 向こうにみえるは 親の家♪の「在所」が問題らしい。これが被差別部落を意味するという。然し一番最後の(つまり最新の)要注意歌謡曲のリストの中にこの曲は入っていないという事がわかる。それ以前のリストは見つからないので指定を受けた事があるのかないのかは分らないが、関係者への取材ではリストに記載された事実はなかったらしいということが判明する。では何故この曲はオン・エアされなくなっていったのか。この曲に限らずメディアにとってリストは安全な範囲という役割を果たしていたのだ。親が子供に言う「道路まで行ったら駄目よ」という境界線的なものだ。自ら考え、検証するという基本的なことをせずに安全圏の内でオート・マチックに単語を選別して放送の可否を決めていたのだ。放送の歴史の中でこのようなシステムに対し当初は忸怩たる思いを持っていたテレビ・マンもいたという。だが今の状況はもっとひどく何の疑いも持たない人間達が放送を作っているという。これについては僕も同感で、何時頃からかテレビのトップ・ニュースはどの局も寸分違わぬものになってしまった。まるで申し合わせたように同じニュースを同じ時間帯に同じ量垂れ流す。偶然の一致というのも時にはあるだろうがこうまで一緒というのは解せない。談合でもしているのではないかと疑ってしまう。メディアは不偏不党、客観性などと格好のいい事を建前としているが、本来客観的事実など存在しない。数あるニュース素材の中から何を選び放送するかというフィルターにかけた時点でそこには主観が働いているのだ。だが各社が同じ素材を選び
同じ料理方法で視聴者に提供するというのはどういうことだろう。広角な視野が求められるメディアが単眼的になっていることには恐ろしさを禁じえない。そして何処を切っても金太郎飴的な放送を見聞きする僕等の思考は停止する。