絶交に思ふ

年末にF氏にメールを送つた。彼とはネツトを通じて知り合つたものでお互い顔も声も知らない関係である。去年の夏にずいぶんと久しぶりに彼からメールがあり、近況を知らせてくれた。僕もつらつらと自分の周辺のことを知らせ、いつか会へる日を楽しみにしてゐると結んだ。見ず知らずの人を知り合ひだといふのはよくよく考へてみれば不思議な話である。これも俗に言ふメル友のひとつなのだらうか。知つてゐると言へば知つてゐるし、知らないと言へば知らない仲。そんな不安定な関係が不安定なまま安定してゐる状態。
これはこれで肯定すべきものでも否定すべきものでもないと思ふのだが、状態としては細く、脆く、希薄で不確実であることは否めないだらう。  永六輔氏と
聖路加の桧原先生は今絶交状態であるらしい。治療に音楽を取り入れて効果を上げやうと実践してゐるのだが、桧原先生はクラシツク、永氏はクラシツクよりも演歌や歌謡曲の方が日本人には合ふと主張し、お互ひに譲らないのが原因だと聞く。僕はこの話をラジオで耳にした時につまらない意地の張り合ひだなあ、と苦笑した。然しF氏とのメールのやり取りをした後、ふとこの話が思ひ出され、永氏と桧原氏との関係を羨ましく感じた。絶交といふ言葉はきつと子供の頃に使つたきりだ。大人になつて「君とは絶交だ」などと言ひ合へる関係を築くのは生半可なものではないだらう。メル友がメル友であり続け、それ以上の発展がなくともそれは仕方のないことであり、知り合ひや友としての新しいあり方なのだと思ふ。だからそれを悲観したり、あり方の価値を云々するのもナンセンスだらう。
然しながら、そんな関係ばかりで実像としての関係が希薄になるのはどうなのだらうか。僕は絶交出来る友や知り合ひを持つてゐるか。そこまで人との付き合ひに努力したか。来るものは拒まず、去るものは追はずと気取つてみるもののフエイド・アウトよりはやはり絶交と宣言する関係の方が尊く、そして美しい関係ではないだらうか。